地名は伏せよう。

二十年ほど前の話だ。
和歌山県のとある岬に職場の先輩らと4人でクエ鍋旅行に行った。
宴の楽しみにと一人仲居を呼んでいた。
宴が始まると、赤い派手な着物を着た唇のぶ厚いクエかと思われる仲居が現れる。
クエ鍋も煮たり酒も飲んだりの宴もたけなわ
小皿もチントテ鳴りやまぬ頃に熱燗で頬赤らめた仲居がポツリと口を開いた。
「実はあたし妾の子なんよ」
えっ、と一同目を丸くして静まり返る。
と、問わず語りで続ける仲居。
時折声を詰まらせながらの不遇な身の上話に私たちの酔いの勢いも徐々に収まってきた。
「すいません。お客さんたちが和歌山市内からお越しになったと聞いて、つい・・・」
ゴーゴーと岬に立つ鄙びた宿に浜風が打ち付ける。
一目だけでもお父さんに会いたい、その一心なリアリズムが4人を圧倒した。
幼いころから母に聞かされた和歌山市内での父の具体的な仕事の話に及んだ時
さっきから首をしきりにひねっていたYさんがハッと顔を上げた。
「そ、それってまさかIさんとちゃうんかいっ」
「ええっ! 知ってはんのん」
仲居のクエぐちがパックリと開く。
ま、まさか・・・・・・。
鼻白む一同。
いや、世間は狭い。 後日、私たちの職場にそのIさんが現れた。
Iさんは私たちの仕事に関係する特殊船舶の船長をしている最高齢者だ。
Iさんはいつも通りに仕事を終えて帰る間際にみんなと雑談をしていた。
そこに現れたYさんが、別室にIさんを招く。
しばらくして聞こえてきたのはIさんの絞り出すような嗚咽だ。
Iさんは顔を腫らせて子供のように泣きじゃくりながら部屋から出てくると足早に外に出て行った。
Yさんの話では、終戦直後に出会った妻以外の女性との間にできた子で成人するまでずっと仕送りを続けていたそうだ。
一目会いたい、一目会いたいとずっと思っていたのだが
会うと情が移るし今の自分の生活が破綻するような気もして苦渋の疎遠を決め込んでいたとのことだ。
そんなことを話すうちにIさんは床に泣き崩れたらしい。
「どうや、その娘はベッピンさんになっていたかい?」
涙でとぎれとぎれの声で訊くIさん。
「ああ、すごくきれいな娘さんになっていたよ」
透き通った声でやんわり返すYさん。
今度はその話を聞かされたボクたちの目頭が熱くなった。
血で結ばれた絆とは、ただ結ばれているだけではなくいつかたぐり寄せるためにある。
ボクはそう思いたい。
人目もはばからず嗚咽したよわい七十のIさんに去来したものは
ボクらの想像の及ばない深い愛情に満ちていたに違いない。
ボクらが今二人に対してできることは何もない。
ただ、どちらもこれからの人生が幸せであってほしい。
そのことを切に願うばかりだ。
