盛夏、奈良県の吉野川で恍惚の人に出会ったこともある。

 その人はボクの少し上の瀬で釣っていた。鮎にはよく釣れ出す時合いという時間帯がある。その時合いがきたかという時、突然大声がした。振り向くとその人が荒瀬でもがき流されていた。

 慌ててボクら数人が救出に入る。何とか浅瀬に到達し運良く竿も回収。見るとけっこうなご老人だ。水を飲んだのか何度も咳き込む。が、直ぐに礼を言うとスタコラともとの場所に戻っていった。

 皆が驚いたのはその後だった。老人は全裸になると濡れた着衣を木に干し、麦わら帽子だけかぶった。

 まっ、まさか。

 皆が注目する中、釣り竿を伸ばしさっそうと石に飛び乗ると丸裸で前のめりに竿をかまえた。その足腰には、さっきのアザがすみれ色に浮き上がっているではないか。

 とがめようと釣り人のひとりが老人に近づいた。

「今が時合いじゃて!」と老人が一喝する。

 ボクはとがめようとした人の手を引いて首を横に振った。それは俗人が近づくなど許されぬ恍惚の人なのだよと。

 筋張った赤銅裸体、その躍動が炸裂した太陽に黒びかりする。恍惚とは美なり、と異様なオーラが周囲を包んだ瞬間だった。

「ほりゃ掛かっちゃ~!」

 と老人の奇声が響いた。

 竿がブン曲がり、橋の上から大きな笑い声が上がった。

 老人はかまうことなく股をおもいっきり割って竿を繰る。

 おしりについたすみれ色のアザが水滴をはじくのを見てボクはプーと吹き出し、ヒクヒクッと腹を抱えてうずくまってしまった。

 鮎釣り、それは時として人に魔性の趣を引き合わせることがある。

 ボクもとくと肝に銘じておこう、と思った。